「零戦灰緑色考察 その1」

初期の零戦に塗られていた灰色系迷彩色もメーカー毎に差があったことが一般に知られるようになり、最近は模型塗料でも「明灰緑色(中島系)」、「明灰白色(三菱系)」なるものが発売されています。しかし実際の色調については今だにはっきりしたことは分かっておらず上記模型塗料も一つの見解として捉えるほかありません。分かっているのは多くの記述や証言から「零戦の灰色系迷彩に緑がかった灰色と普通の灰色の2種類があった」ことだけで、厳密に言えばメーカーによる差なのかどうかも確証がありません。リサーチャーの間でも中島製が灰緑系で三菱製より暗かったとする説や、そのまったく逆の説、あるいは塩害対策として塗られたワニスの上塗りのため陸上基地と母艦航空隊で色が違って見えた等々,議論百出で、最近では「現用飴色」なる記述が発見され、零戦飴色説が定着しつつあるようですがその解釈については大きく意見がわかれるようです。つい最近もMA増刊「日本海軍機の塗装とマーキング」の改訂版が出たそうで、(私は未見ですが)聞くところによると「緑褐色」なる色名も登場し混乱にますます拍車をかけているようです。さらなる混乱を恐れずにこの議論に自分なりの考察を述べさせて頂こうと思いますが、まず便宜上ここでは緑がかったグレイを「灰緑色」, ニュートラルグレイを「灰色」と呼ぶ事とします。(明灰色、明灰白色、明灰緑色等は正式名ではなく戦後モデラーが便宜上付けた名称です。)私自身かつて映画「トラ・トラ・トラ」に登場する薄緑に塗られた零戦を見て意外に思った記憶があり、ニュートラルグレイの零戦が前提だった世代として「緑がかった灰色の零戦」というイメージは今だに受け入れにくいものがあります。しかしそのつもりで資料を捜すと、当時実機を見た人達の証言に、「青畳色」「うぐいす色」「草色」など単なるグレーではなく、「緑がかった色」を示す記述も多く見受けられますし、設計者、堀越二郎氏も回想記「零戦」に〜完成したばかりの12試艦戦はにぶく光る灰緑色に塗られていた〜と書かれています。さらには捕獲された零戦についての連合軍側資料にも「very smooth gray, tinted with blue light green」という表現や「Somewhat similar to our camouflage shade known as 'sky'」「我々のスカイに似ている〜色」とグレイの二種があった事などが記されています。特にこの「スカイに似ている〜色」という表現はかなりインパクトがあるのではないでしょうか。 あの英国機スピットファイア等に使われた薄黄緑色(ダック・エッグ・グリーン)=スカイに似ているというのですから。これらの記述から〜緑がかったほう〜の色はおぼろげながら見えて来るようです。

さて、これら証言の〜緑がかった灰色〜の零戦は三菱製だったのでしょうか、それとも中島製だったのでしょうか? 上記「青畳色」、「うぐいす色」の表現ははいずれも日本国内で実機を見た民間人の証言で、前者の「青畳色」証言は報国献納式で12試と聞かされ初めて見た機体だったことからして三菱製に間違いありません。後者の証言は「後に灰色のものも見るようになったが、零戦の基本はうぐいす色だった」という内容で、確証とはならないものの三菱製=うぐいす色を支持するものではないでしょうか?連合軍側の資料は前者がアクタン島で捕獲された竜驤の零戦21型「古賀機」の調査からでこの機体は三菱製(4593号)と判明してます。後者はオーストラリアで捕獲修理の後、アメリカ本土でテストされた2空の零戦32型のもの。零戦32型は三菱でしか生産されていません。そしていうまでもなく三菱製の12試艦戦。戦局の変化により、のちに濃緑色に塗られる零戦ですが以上のような資料から私は中島製零戦が灰色、三菱製が灰緑と考えています。三菱が32型の生産に切り替えた昭和17年以降も中島は21型の生産を続け、総生産機数も本家三菱を上回ります。太平洋戦争初戦で空母とともに多く失われたのが母艦航空隊の三菱製零戦21型であったとすれば、灰緑の零戦の数は急速に減り、中島製灰色の零戦に数で圧倒されたと想像されます。これが戦後一般に零戦の初期迷彩は灰色だったと言われる理由ではないでしょうか。またこれは一部で言われている母艦航空隊が薄緑色の機体、基地陸上隊が灰色の機体だったとする証言(これは生産上及び作戦上から考えて無理がありますが)とも一致します。

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